京都の妙心寺には、これまで何回出かけたか覚えておりません。花園の地の利もよく、七道伽藍や40あまりの塔頭(たっちゅう、子院)が魅力だからです。法堂天井を飾る狩野探幽作、八方にらみの雲竜図や、サウナの原型のような浴室などをご覧になった方も多いと思います。ところが、その寺宝となると、これまであまり見る機会がなかったのではないでしょうか。
じつは大学時代からの友人(趣味で金工もやっている)を誘って、上野の都立美術館で開かれている、モリスから民芸へ、を謳った「アーツ&クラフト展」を見に行ったので、東博はそのあと、常設展を見るつもりで立ち寄ったのです。都美術館では、アーツ・アンド・クラフツ運動の大きな流れを掴むことはできたのですが、本家の英国関係は、12年前の「モリス展」で見たものが再度お目見えした感じで、期待はずれでした。家に戻ってから、古いモリス展のカタログを繰って確かめて見ましたら、ビクトリア・アンド・アルバート美術館から今回出品されて目玉になっていた、タピスリー2点も椅子3点も、まったく前と同じものでした。いささか招致計画がお粗末です。
しかし疲れて重い足を引きずって東博に回り、「妙心寺展」はまだやっているのか、とよくあるお寺さんの展示ぐらいにしか思わず、ついでに見たのですが、その充実ぶりはうれしい誤算でした。ここで見た五山展以上の内容でした。
なるほど、今年は、花園法皇が開山つまり初代住持に迎えた「無相大師」の関山慧玄650年遠諱(おんき、没後650年)に当たるとのことで、臨済宗妙心寺派が総力あげての記念展「妙心寺」であったのです。禅には大きく2系統、只管打坐(しかんだざ、ひたすら座禅する)の曹洞宗と公案重視の臨済宗があって、曹洞宗は大きく1つに纏まっていますが、臨済宗は諸派に分かれています。妙心寺派はその臨済宗最大の宗派で、傘下に花園大学などがあります。その展覧会なのです。東京国立博物館平成館で開かれたあと、3月以降は京都国立博物館に巡回するとのことですが、これは私にとって思いもかけない収穫でした。
妙心寺の鐘がありました。流麗な唐草文のある鐘は、徒然草にもその音色が愛でられている国宝です。文武天皇2年(698)のもので、記年銘(戊戌年四月十三日)をもつ鐘ではわが国最古、といわれるものです。京都で拝観したとき、昭和48年(1973)まで撞いていたという説明でした。それ以上に感激したのは、信長時代、イエズス会建立の南蛮寺にあった銅鐘にお目にかかれたことです。IHSのイエズス会紋入りで、「1577」とこれも陽刻された重文の鐘です。いまや蛸薬師通りに行っても跡形もない南蛮寺ですが、その唯一の生き証人がこの高さ60センチあまりの鐘なのですから。
もう一つの見ものは、昭和天皇の「無相」という書です。国立文書館などで昭和天皇の「裕仁」という御署名は拝見していますが、こんな力強い禅僧顔負けの揮毫にはお初にお目にかかりました。二二六事件の時、「わが重臣を殺して」と天皇が激怒して、そのため青年将校たちの運命が一転、逆賊になってしまうのですが、そのときに見せたであろう激しい気迫が、この20数年後の筆勢からもうかがえます。50年前、御歳58歳の書で、無相大師600年遠諱に下賜されたものだそうです。大師号というのは朝廷が高僧に与えるもので、第一号は最澄の伝教大師で、妙心寺の開山慧玄の大師号「無相大師」が23人目だそうです。これは明治天皇宣下により、臨済宗始まって以来のものです。
あとは、高さ2㍍を超す白隠和尚の大達磨像のド迫力と、浅井家重臣の子で桃山時代の画人になった海北友松作襖絵3点の鬱屈した鮮烈さ、に打たれました。今回の出展総数は220点ですから、ゆっくり見たら、2時間では足りないぐらいあります。お急ぎを。金子務記
# by tsu-kaneko | 2009-02-22 18:07 |
日記
緒形拳さん最後の主演ドラマ、「帽子」の特別アンコールという番組をBSで見ました。池端俊策氏の凝縮した脚本も素晴らしかったのですが、病魔に冒されていた71歳の拳さん演じる老いの一徹ぶりも、若者への優しさや、幼い頃から妹同様に面倒を見た胎内被爆女性への想いも見事なもので、感動しました。島田正吾二世といった趣がありました。
98歳で大往生を遂げた新国劇の島田正吾さんは、お茶の間のテレビ「十時半睡事件帖」でその存在感に圧倒され、亡くなる一年ほど前、私は新橋演舞場に出かけて、「小林一茶」に渋い脇役で出ているのに打たれたのが、私の見納めでした。緒形拳さんの師匠はもう一人の新国劇の雄、辰巳龍太郎さんだそうですが、拳さんの渋い演技力を見いだして引っ張り上げたのは、島田正吾さんだと聞きました。まだお若いのに残念なことでした。
拳さん演じる帽子屋さんのある舞台は、広島県の呉海港近い寂れた商店街の一角です。上京した息子夫婦に帽子屋家業は見放されていても、周囲のものには帰ってきて跡を継いでくれる、などと強がりをいって、かつかつの生計を保っているのでした。
私はこれを見ながら、私の古い生家の隣にいた帽子屋の叔父さんと息子さんのことを思い出して、胸が痛くなりました。黒い学帽は戦前戦後の昭和30年代前半頃までは、男の子にとってあこがれの帽子でした。私は4人兄弟でしたが、昔ながらの城下町で育ちました。小学校に、旧制中学に、新制高校に、大学にと、入ったときには、いつも隣の帽子屋の叔父さんが作ってくれた学帽をかぶったものです。堅いつばと柔らかに波打つフェルトの黒い丸帽ですが、大学生になるとてっぺんが隅丸の菱形になるのです(兄が被っていた早稲田の角帽はとんがっていました)。高校、大学の頃はみなバンカラ趣味で、てっぺんに靴墨を付けたり靴を拭ったりして汚すのが普通でした。
叔父さんはガラス越しに見本の帽子の奥で、白くて長い顔に笑みを浮かべて、いつもミシンを踏んでいました。戦前の昔、結婚して千葉県の船橋海岸に住んでいた叔父さんを、私たち小学生の兄弟で訪ねて、荒れる海と波の音に恐ろしさを感じたものです。海なし県で生まれ、この時初めて私は海を見、静かになった海で川と違って浮く実感も確かめたのです。叔父さんは、赤ちゃんを抱えたこれまた優しいおばさんと歓迎してくれました。祖父が家作をもっていましたので、祖父が溺愛していた妹の子である叔父さんを、隣家に住まわせたのだと思います。その時には叔父さんは、もう一人前の帽子職人になっていたのでしょう。
お正月にははずかしそうな顔をしながら、4人の私ども腕白坊主に半紙で包んだお年玉を配ってくれました。ミシンを踏む姿は同じでしたが、いつの間にやら黒帽の山は見えなくなり、黄色い安全帽や野球帽になっていました。私がたまに実家に戻ると、すっかり大きくなった長男と親子してミシンを踏んでいる姿を、見かけました。
そのうちに叔母が亡くなり、叔父も病没して、ぼんやりしたところがある従弟一人遺されました。帽子以外作ったことのない気の優しい男でした。嫁の来てがなかったのか、独身でした。ある日、実兄からの電話で、この従弟が自殺した、ということを知ったのです。呆然としました。帽子屋の先々のことを悲観したとも、悪い仲間に誘われて相場の深間にはまったとも聞きましたが、よくわかりません。いずれにしても、人生に絶望して闇の世を見限ったのでしょう。優しかった隣の帽子屋さん一家はこうして消えてしまいました。
ドラマの緒形拳さん演じる帽子屋さんは、制服制帽の多い呉地方特有の風土に救われますが、さして特色のない地方の帽子屋さんは、どうしているのでしょうか。老いも悲しいことですが、古き良き生業が崩れ行く悲痛さも胸をむしります。
# by tsu-kaneko | 2009-02-09 01:55 |
日記
いま東京国立博物館で福沢諭吉展が開かれています。この計画の中心で活躍され今春慶応大学を退任される友人、前田富士男教授がチケットを送ってくれました。そこで旧友を誘って上野の表慶館に見に行ってきました。本館正面の、入梅時には白く大きなチュウリップ状の花々をいっぱい付けるユリノキの大木の左正面にある、大正天皇即位記念に建てられた建物です。
慶応の卒業生らしき集団があちこちにできていましたが、展示物は福澤の塾関係が充実しています。大分県の中津にある記念館とはこの点が大きく違うようです。幼稚舎で体操教育に力点を置いていたことも、知りました。「身体健康精神活発」の書や、「まず獣身成りて後、人心養う」という標語にもそれは現れていて、学校体操の起源について考えさせられました。
ほかにまだご覧になっていない人のために、お勧めのものを書いておきましょう。
第1は、『蘭学事始』の杉田玄白自筆写本です。わが国の西洋医学の本格的な導入になり、蘭学興隆の夜明けを告げる『解体新書』上梓にいたるエピソードを満載した、岩波文庫でも薄い一冊の原本、がここにあります。
杉田家保管の原本は安政大地震で消失、幕末の和算家神田孝平が、湯島天神裏の露天商の店先で、これを見つけ、友人の福澤に見せたものです。この原本は、もともと杉田玄白が手写して大槻磐水に送ったものであることもわかりました。福澤がこの内容に注目して、杉田家に資金援助までして出版を勧め、明治2年(1869)に出たものです。見本刷りの原題は「和蘭事始」で出る予定が、福澤の手入れによって、和蘭を蘭学に替えて「蘭学事始」になったことも、表紙の校正から見て取れます。
第2は、陶磁器部門の国宝第1号「秋草文壺」も見られます。名高いものですが、私がお目にかかるのは今度が初めてです。戦争中の日吉キャンパス東方の墓地遺跡から発掘されたもので、昭和28年に指定を受けました。高さ40cmあまりある平安期の優品で、緑かかった灰釉をかぶり、ススキやコオロギの線刻模様がさわやかです。口縁に少し欠けたところがありますが、有力者の蔵骨器であったようです。
第3は、慶応出身の実業家で茶人は多いのですが、その人たちの旧蔵品も多く展示されて、圧巻です。大正11年(1922)にアインシュタイがその口切り茶会に招かれた、高橋義雄(箒庵:そうあん)の茶器に私は注目しましたが、同じく展示されている朝吹英二(柴庵:さいあん)、益田克徳(非黙、鈍翁の弟)などと同じ慶応出身の三井系の茶人です。
電力界の鬼といわれた松永安左エ門(耳庵:じあん)旧蔵で、いま京都の国立博物館にある国宝「釈迦全棺出現図」一幅の迫力には感動しました。私は、小田原の記念館はもとより、九州の福岡市立美術館に出かけて、郷里壱岐の関係でそこに寄贈された松永コレクションの香合や茶碗や茶入れなどの数々を見に行ったものですが、この国宝の一幅になかなか出会えなかったのです。天から下った生母に、神通力ですでに寂滅したはずの釈迦が、棺桶を開けて身を起こし、偈(げ)を唱える場面が克明に描かれています。よく見る涅槃図とはひと味違うものです。
展覧会は3月8日までですから、お急ぎを。
# by tsu-kaneko | 2009-02-05 11:33 |
日記
伊藤幸郎君は、上野駅近くの砂糖問屋の家に昭和8年に生まれ、青山学院付属から、日比谷高校、東大と画に描いたようなコースを歩んで来ました。ですから、埼玉県の川越生まれで、高校で初めて東京に出て、渋谷の慈恵会医科大学付属高校に行った田舎ものの私から見ると、いかにも都会型の、しかし図太さもある俊才でした。茫洋として少し影のある笑顔に、張りのあるバリトンの声が同居していて、伊藤君の魅力になっていました。大学2年の秋に彼と出会い、なにかと互いをからかいながら、親友になっていました。
伊藤君だけでなく、教養学科の第4期に入った同期生は全部で7人いましたが、たいへん仲がよかった思います。田中健治(名古屋大名誉教授)、武富保(信州大名誉教授)、秦葭哉(杏林大名誉教授)、井口道生(米国アルゴンヌ原子力研部長)、佐竹誠也(武蔵工大名誉教授)、美川淳而(九州芸工大名誉教授)、それに紅一点の井本(梅田)亮子嬢、それに私でした。みな一種の稚気のある仲間で、つい最近まで渋谷に遺っていた名曲喫茶のライオンに出かけては、和気藹々と談論風発、楽しい学生生活を送ったものです。玉虫文一先生や木村雄吉先生のゼミは全員がとり、三枝博音先生や矢島祐利先生の対照的な科学哲学・科学史の講義を受け、フランスやアメリカから戻ってこられた若手の木村陽二郎・大森荘蔵先生のゼミに興奮したものです。
やがて、伊藤と秦の両君が医学に志望を定め、ジャーナリズム志望の私を除いて、みな生物や物理や建築の大学院など研究畑に散っていきました。伊藤君は大森荘蔵先生の指導で卒論を纏めていました。したがって大森哲学の洗礼を受けた学生の第1号、といえるかもしれません。伊藤君と小生は留年組で、卒業は形式的に第5期になったので、二人の間では4・5期だ、といっております。
卒業後もわれわれはよく集まりました。1つは駒場科学論グループと称し、小生担当の月刊科学雑誌『科学読売』誌上で、グループ書評という形で、毎月1冊の本を取り上げては、合評を載せることをやったからです。これは2、3年続きました。その後、小生の転社先の雑誌『自然』では、田中君ともどもミニスコープ欄の常連筆者になってくれました。
その間も、特異な生命論思想家L・L・ホワイトを中心とする木村雄吉先生の読書会は、先生の新任先の医科研で、やがて先生の居られる本郷の求道学舎で続けられました。昭和40年、先生ご退官を機に、「白雄会」と名付けて再出発し、平成元年お亡くなりになる時までこの会は続きました。この同人が伊藤君、田中君、秦君、武富君、小生に、二期上の束ね役の永井克孝(東大名誉教授)さんでした。ときに伊東俊太郎先生も出席されました。じつは伊藤君が北九州に赴任するきっかけも、同大副学長から相談を受けた木村雄吉先生のご配慮によるものでした。
酒好きな伊藤君でしたから、まさかその彼が運転免許証をとるとはだれも考えなかったのですが、いつのまにやらスピード好きなドライバーになっていました。木村先生が北九州に招かれて彼の車に乗せられたとき、車内の手すりにしがみついて、「伊藤君、大丈夫か」と繰り返していたエピソードもあります。小生の焼き物好きを知って、遠賀川上流の緑釉が見事な上野焼の窯元に何度か行きましたし、有田や唐津、平戸など二人でドライブ旅行もしました。
伊藤君の半生を語るにはとても誌面の余裕も時間もありません。そこで晩年、奥様の伊藤季実さんともども吟行人生も送っていた俳句のいくつかを、紹介いたします。これは小生の依頼で、奥様が選ばれた20句(いずれも特選・本選句とのこと)からのものです。
満月へ吸ひ込まれけり象の列
スリランカ吟行の特選句で、このとき季美さんの特選句が「椰子の実へストロー二本夏帽子」でした。あどけなさもある奥様と、いつも遠くを見ていた伊藤君の息のあった2句です。少年時代と晩年の心境を吟じたもの2句があります。
大店の子の着ぶくれて一人ぼち
六十年遊び呆けし花野かな
今春(2008年)、『炎環』20周年特集で800句中優秀賞に選ばれたのが、
人日や象高々と水吹きし
でした。5, 6年前でしょうか、伊藤君夫妻が鎌倉に吟行に来られ、昼飯を小料理屋でご一緒したのが、お二人揃ってお見受けした最後でした。昨年春、木村雄吉先生の眠る我孫子に墓参して、こころなしか弱った感じの、背が丸くなった伊藤君と別れたときの後ろ姿を思い出します。
今夏、出羽三山に遊び「光明院仁誉幸道居士」になった君を偲んで。
友逝きて弥陀の湿原鬼薊(あざみ)
伊藤幸郎君は北九州市に設立された産業医科大学で、1年次から6年次まで全医学生の必修科目になっている医学概論の創設教官でした。東京都の青山病院内科科長から、昭和56年に赴任したのですが、5年後教授に昇進してからの15年間、伊藤君はもてる能力を生かして、北九州の一角、医生の丘に壮大な試みの医学教育実践場を設けたのでした。
医学概論といっても、それは単なる一般教養としての医学入門講義ではなかったのです。総合人間学を目指した独特の教科で、とかくエリ-ト意識の強い医学系の学生たちに、全学年を通じて、生・老・病・死の人間の実相を直視させることを意図していました。このことは前任者の計画でもあったのでしょうが、伊藤君の企画は、もっと徹底しておりました。入学したての医学生全員を、まず重傷心身障害児施設などに2泊3日放り込んで、治療困難な厳しい医療現場を早期体験させたのです。手荒いカリキュラムの洗礼です。これはいまやこの大学の特色になっているようです。こうして6年間、生命倫理・医学史、東洋医学、医療面接実習、臨床死生学・倫理学などを学ばせるのです。
私は、何度か招かれて、「アインシュタインの死生観」「三木成夫から学ぶ内蔵感覚」などの話をし、玄界灘の大皿の刺身をご馳走になりながら、彼の充実した日々を喜んでいました。
この伊藤君が、平成2年脳死臨調(臨時脳死及び臓器移植調査会)参与となり、委員として活躍されました。彼はもちろん医者でしたが、脳死移植推進派の医者たちに与せず、「脳死は人の死である」ことに反対する梅原猛委員らの少数意見にも耳を傾けながら、今の時期には最適な「新臓器移植法」(1997年施行)に辿り着くのに尽力したのでした。
伊藤君の口癖は、脳死を人の死とすることへ抵抗感は一人称の死(私の死)や二人称の死( 愛する家族の死)で起こるので、これは避けがたいとしていました。しかし脳全体が壊死に陥った場合でも内部意識があるという議論には、科学的根拠から与しませんでした。三人称の死にはそれなりの科学的な合理性が用意されているからです。
結局、「新臓器移植法」では、脳死に陥った本人および家族から進んで臓器提供の意志を文書で示された場合のみ、脳死判定をもって死とすることが決まったわけです。
伊藤君は、「脳死をもって死とするのには、まだ社会的合意が形成されていない日本では、ベターの選択であった」といっておりましたが、その通りであろうと思います。
2008年6月11日 すごいな、三国志のなかの空中回廊
三国志展の券を大阪の知人が2枚送ってくれました。
三国志はもちろん大好きです。劉備・関羽・張飛が義兄弟の契りを結ぶ桃園の誓いやら、諸葛孔明が劉備の三顧の礼に応えるあの草深い草廬の出来事やら、赤壁や五丈原の戦いなど、吉川英治以来の刷り込みが、にわかにフラッシュバックしてきます。おまけに、中国から持ってきた一級文物50数点を含む展示だ、というではありませんか。
しかし場所が八王子のはずれにある東京富士美術館と聞いては、躊躇もしたくなります。鎌倉の家からですと、バスでJR藤沢に出て、2つ先の茅ヶ崎駅からJR相模線で橋本経由ですから、八王子駅まで2時間近くかかります。なにしろ相模線は、昔ゴルフに凝っていた国立時代に、JR南武線から乗り継いで茅ヶ崎に出たことが1回あるだけです。どうしようかと思って、好奇心旺盛な家内に振ったら、「行く」というのです。
そんな思いをして、行ってじつによかった。成果あり、デス。
家内は、長坂坡の戦いで、猛将の趙雲が単騎で劉備の赤ちゃん(阿斗)を救い出し、懐に入れて曹操軍の大将張郃の追撃を振り切る場面が気に入ったらしく、木彫や陶壁図を見入っていました。私も三国鼎立時代などの理解が一段と深まったのはもちろんですが、なんといっても大きいのは、これで曹操の再評価が私にとってはっきりした感じです。
魏の曹操は悪玉で、呉の孫権も冷血で、などと、蜀の劉備主従を贔屓するのが通例ですが、何十年も前に、有名な魯迅の講演「魏晋の気風…」を読んでから、曹操への興味が増していました。(あとで調べましたら、これは1927年の学術講演でフルタイトルは、「魏晋の気風および文章と薬および酒の関係」で、竹内好訳『魯迅評論集』岩波新書にあるものです。面白いものです)
曹操とその子曹丕(漢朝を奪って帝位に。孝文帝)は、ともに文を好んだ通脱・剛毅な人物でした。儒者でなく方士(方術・仙術をよくする道士)や文士を多く集めていたというのですから、時代も国も違いますが、魔術帝国を築こうとしたハプスブルク皇帝ルドルフ2世を思い出します。しかしルドルフは狂気半分でしたが、曹操・曹丕には魯迅のいう清峻な冷徹さはあっても、狂気はないようです。
のちに華岡青洲が先師と仰いだ名医華陀(麻酔薬・麻沸散を考案)を殺した曹操は、自らは大酒飲みであっても、禁酒令を出す冷静さがあったからです。「屯田制」で食糧確保と自衛力を高め、「求才令」で才能あるものを抜擢したのも曹操でした。
今回の展示考古学資料で、とくに面白かったのが、曹操が建てた銅雀3台といわれる壮大な高台建築群関係のものです。
やがて曹魏王朝は洛陽を都に定めるのですが、まず曹操が都城として開いたのが鄴城(ぎょうじょう)で、その都城計画は以後の都城計画のモデルになったようです。とくに北城の西城壁にある高台3つ、高さ24㍍の銅雀台、19.6㍍の金虎台と氷井台は、アーチ橋のような空中「閣道」でつながっていたというのです。ここで宴が開かれ、中国文学史上、最初の文学者の集まりがあった、と報告されています。敵に襲われても、アーチを切り離せば、独立の要塞に化します。
この銅雀3台は、紀元後210年から213年にかけて造られたこともわかっています。「魏志倭人伝」は、西晋時代に書かれた正史『三国志』にある日本についての最初の記述ですが、女王卑弥呼の使者が洛陽に至って、金印を授けられるのは、このわずか25、6年後のことです。辺境の日本と中国の文明のレベル差は驚くほど大きい、と自覚しました。
銅雀台の基礎4隅を飾った長さ2㍍もある重そうな青石の竜首が1つ、飾られていました。頭をもたげ、2つの角と耳、口元から8本の牙を覗かせていて、いかにも恐ろしげでした。 金子務記
2008年5月27日 内田昇三先生は1994年、93歳で亡くなった生物学者です。晩年の20年、短歌・俳句・詩を作り、没後、遺稿が『詩歌集 城ヶ島』として2年ほど前に私家版として出されました。5月下旬の薄曇りの1日、私は機会を得て城ヶ島に遊びました。先生は、神田生まれで、3歳のとき母を失い、5歳上の兄とともに、9年間、緑と海の城ヶ島で育った方でした。それこそ城ヶ島生活で人生の大転機を迎えたという、詩聖北原白秋の遺跡のいくつかを見て回りながら、私は、高校時代の恩師の穏やかな笑顔と詩歌の数々を思い出していたのです。
「贈られし小函の中におさめなん九十二歳の我が霊を」
教え子の山本陽子さんから、誕生祝いに黒い石の小函をもらったときの艶やかな歌です。質朴な先生の風貌も伺われます。
先生の詩歌には、城ヶ島時代の思い出が通低音となって共鳴しています。都会生活のなかで、絶えず島の生活が甦ってくるようです。なにしろ、四年生まで一教室一先生の城ヶ島分教場(いまは海の資料館)で学び、五,六学年を向こう岸に渡船して三崎小学校に通ったのです。
「土手に上れば眼下に見えし太平洋その家に我は育ちたりけり」
「その上の城ヶ島の原にいる如し眼つぶれば北風の声」
「祖母は浅草母は銀座の生まれなり自分は神田っ子なり」
「笹原を歩けば飛び出す松虫をとらえし我は島の子なりけり」
先生は1913年、大正2年に離島して東京に出、開成中学、一高、東大動物学科と秀才コースを進み、教授生活に入ります。旧制四高(金沢)、成城高校、東京薬科大、東京慈恵会医科大予科、麻布獣医大、東京女子医大などです。私は戦後の学制改革混乱期に新制慈恵高校一期生になり、そこで先生に生物学を習ったのです。
先生の離島と入れ替わるように、白秋は一家を挙げて三崎に渡り、やがて舟歌「城ヶ島の雨」を作詞して、詩人白秋の名が世に知られることになります。いまその碑は城ヶ島大橋の下の荒磯にあり、その上の白秋記念館で、梁田貞作曲の、奥田良三がテノールで歌うテープを聴かせてもらいました。9ヶ月の三崎生活でした。妻俊子と寄寓した見桃寺に、死の前年、1941年、昭和16年に自筆歌碑を建て、いまに遺っています。黒い秩父産の自然石に、「寂しさに秋成が書を読みさして庭に出でたり白菊の花」です。『雨月物語』の「菊花の約」にそぞろ哀れを催して詠んだとされています。
しかし57歳で死ぬ白秋に比べ、先生が93年間の生涯に抱きつづけた「淋しさ」も格別なものです。わずか27歳で逝った美人の母の面影を追い続けていたようです。
「浮世絵の明治のひとは浴衣きて石をみて居り母にあらずや」
もそうですが、『詩歌集 城ヶ島』の巻頭に置かれた「奈良三月堂月光菩薩礼讃」は、月光菩薩を母に見立てた母恋の歌のように思います。
「愛さんとすれどなし得ぬ我なりと月光菩薩は悲しみにけり」
「人の世の悲しきさだめそのままに月光はただ立ちつくすなり」
「月光の淋しき顔をみてあれば我も淋しき秋の一日」
このブログを読んで、内田昇三先生とその歌集に惹かれた方には、ご遺族のご厚意で、無料で詩歌集(全286頁、カラー白黒挿し絵頁20頁つき)を差し上げるとのことです。連絡先:「東京都世田谷区桜上水1-26-10 内田美枝子さま」です。送料はご負担いただき、着払いにさせてください。
金子務記
# by tsu-kaneko | 2008-05-27 04:03
伏見康治先生が亡くなった。98歳である。あとわずかで白寿の誕生日を迎えるところであった。東大物理学科で学び、阪大、名古屋大教授を経て、日本学術会議議長も務めた。旧制東京高校時代以来、同級のすでに亡き渡辺慧先生と親交を結んでいた。私は読売新聞、中央公論社に在籍した科学ジャーリズム時代、この両先生にはいろいろ世話になった。
伏見先生はおおらかな大人の風格があり、一連のガモフの普及物理学書トムキンスものの翻訳(白揚社)も手がける自在さがあった。奥様と共同の折り紙の世界も奥行きの深いものだった。私どもが立ち上げた形の文化会発起会でも、記念講演をお願いし、学会機関誌『形の文化誌』(工作舎)にご寄稿(家紋について、等)もいただいた。本会名誉会員でもある。渡辺先生もユーモアを解する自在な才人であり、物理学界きっての論客でもあった。武谷三男氏らのセクト主義を批判して渡米、国際的に科学と哲学に橋架ける分野、とくに時間論で一境域を開いていた。愛称「ライオン」と呼んでいたドイツ留学時代以来の愛妻と、時間論の名著(自然選書)も遺されている。
上智大の柳瀬睦男氏も東大時代の同期であったと思うが、この三人が中心になって日本時間学会が生まれ、そのメンバーに若手の俊才村上陽一郎氏も加わって、私の企画で『自然』誌上で時間論の連載をし、本にも纏めた(自然選書)ことを思い出す。
ある時『自然』誌上で、伏見・渡辺両先生に長い対談をやっていただいた。場所は紀尾井町の福田屋であった。お二人が、物理用語の問題になったとき、伏見先生はスペクトルの訳語に「光譜」を提案していたが普及しなかったのを残念がられていた。私もいまになっても「光譜」とはうまい訳語であり、せめて中国人に普及を願いたいと思っている。
渡辺先生は、旋回性を表す用語、「カイラリティ」(chirality)の最初の提案者であったという話をされた。パリティ保存の問題で、右ねじとか左ねじとかいって、旋回性を一言でうまく表現できていなかった時代である。アメリカ物理学会の機関誌に投稿したら、その編集長がハウトスミットというオランダ系の物理学者で、アジア人の渡辺先生がギリシャ語由来の新語を提案したって、そんなものなど受け入れられるか、という人種差別丸出しの態度で握りつぶされた、苦い思い出を語っていた。
この渡辺先生が亡くなられて久しい。いま伏見先生のお通夜(2008年5月11日)が行われた横浜・妙蓮寺に出かけて、満面笑みをたたえたお顔のアップを仰ぎ見ながら、偉大な先人お二人の交友を思いだし、その一面を綴った次第である。金子務記。
2008年5月3日 世界遺産に古都鎌倉を、という運動が現市長を始め関係者の間で盛り上がっているのですが、反対論者にはいまさら何で世界遺産なんだ、という向きもあって、市民の考えも一枚岩ではなさそうです。
私は基本的に世界遺産登録に賛成する側です。鎌倉に住んでもう40年近くなりますが、この町に集積している文化の重なりの重さを思えば、当然だという気持ちになります。デジカメをポケットに入れて、私は、気の合う友人たちと、時には一人で、鎌倉市中はもとより、藤沢や江ノ島、逗子あたりまでよく歩き回っていますが、その都度、何らかの文化史跡の発見があるものです。それだけ鎌倉の文化は奥深いのです。世界遺産登録に伴う規制が増えると、観光活動や市民生活に差し障りがあるなどという意見もあるようですが、文化遺産を守り、後代に伝えるという、私たちに課せられた責務を思えば、多少の不便さが生じたとしても、我慢し協力すべきだと思います。
といっても、いまの世界遺産登録運動に危惧の念がないわけではありません。昨秋、私の友人で京都の国際日本文化研究センターの客員研究員になっていた王維坤西安大学教授をお招きして、東京で講演をお願いし、友人の高木規矩郎氏らと相談して、その晩、鎌倉に一泊していただきました。王さんは、未知の遣唐使群の一人、「井真成」の墓碑の発見紹介で名を挙げた少壮研究者で、中国の世界遺産関係の委員もされている方です。翌日、忙しい中を市長にもお会いし、世界遺産の担当責任者からの説明を受け、主だった名所も見ていただきました。
大いに理解を得て、登録推進に協力したいともいってくれたのですが、ただ一点、だめ押しされたことがあったのです。キャッチフレーズになっている文言で、「武家の町」というくくり方でした。中国始めアジアの人々には、この文言がどうやら「軍都・鎌倉」と映るようなのです。古代日本文化にも明るい王さんの目にも、そう映るようなのです。武家という概念は鎌倉時代に成立した歴史的概念であって、明治以降の軍事大国・日本の軍隊とは無関係、といってもいいわけがましく聞こえるようです。
そこで、世界遺産登録推進派の方々は、「武家」ということの意味をよく考え、再考されるべきだと思います。王さんのご意見は、市長以下関係者も直接お聞きになったはずなのですが、聞き流されてはまずいと思い、再度、問題提起しておきます。金子務記
# by tsu-kaneko | 2008-05-03 12:46
2008年4月26日 私が会長をしている形の文化会総会で、シェイクススピア学者の藤田実さん(阪大名誉教授)の講演を聴きました。シェイクスピアはロンドンにあったグローブ座の座付き作者であったのですが、グローブ座は当初はジョン・ディーの構想のもとに作られ、シェイクスピア時代のものはそれを改築した2代目ということです。いまあるグローブ座は、したがって3代目になるのでしょう。
藤田さんは、イエーツの『世界劇場』(晶文社)の翻訳者ですから、グローブつまり地球は同時に天球を写し、グローブ座が世界を写す人生劇場である、という私にとっても、さもあらん、ということになっていると思いましたら、イギリス人の大方の研究者は、このイエーツの見解に与しないということで、驚きました。発生的に、演劇は宿屋の中庭で生まれた、In-Yard Theoy が強いのだそうです。しかし、グローブ座には舞台正面に2本の列柱があり、これはどう考えても、ギリシア・ローマ神殿由来で、また円形劇場というのもギリシア・ローマ劇場の形状にそっくりです。その影響を、イギリス人は、がんとして認めないのだそうです。
私はロンドンには何回も行ってますが、演劇やオペラのメッカで、「キャッツ」も「オペラ座の怪人」もこの発祥の地で見たのが自慢です。グローブ座は東京にも復元されていますが、この外形は当時の銅版画などでわかっていても、内部の記録は残っていません。
そこで同時代のスワン劇場の内部スケッチが唯一の資料になっています。これはオランダ人学生のヨハネス・デ・ウイットの手になるもので、張り出した舞台奥に2本柱が立ち、屋根を支えてます。このスワン劇場がシェイクスピアの生地、ストラットフォード・アポン・エイヴォンに再現されていて、数年前にここで17世紀スペインの尼さんが書いた喜劇「欲望の館」を家内と見ました。隣に建つ大きな「ロイヤル・シェイクスピア劇場」と違って、こぢんまりした3階席のある円形劇場で、左右に2つずつ扉があり、演出ではこの扉を自由に使って、俳優たちで現れては消える花道にもなっていました。
近くの公園には、四角の台座に円柱が載り、その上にシェイクスピアが座っている像が建ち、四周をハムレットやマクベス夫人やらの像が飾っていました。これも円形劇場を象徴しているようでした。イギリス人がギリシア・ローマの影響やらを認めたがらないのは、今日、EUに加盟しながら、ユーロを採用せず、女王陛下の肖像の載るポンド紙幣に死守するのに似ているな、と苦笑させられました。金子務記
# by tsu-kaneko | 2008-04-28 15:15
2008年4月20日 昨日、京都神光院に出かけました。前々から挨拶したいと思っていた、懐かしいという感じの女性がいたからです。
ここは、東寺・仁和寺と並ぶ空海ゆかりの名刹です。京都駅前から9番のバスに乗り、40分以上もかかって、上賀茂神社の先の神光院前で降りました。ここにじつは太田垣蓮月尼という女傑が、幕末から明治にかけて住んでいたのです。
蓮月尼ゆかりの茶室も遺っています。蓮月焼といって、柔らかな、しかし楽よりは重い黄白色の陶肌に棒釘で自作の歌を彫りつけた焼き物や多くの歌で知られ、また、細密で豪放な面も併せ持つ絵描きの富岡鉄斎を少年時代から育てたことでも知られています。私も竹節型の蓮月自作の香合を1つもっていて、それには、「この君はめでたき節を重ねつつ、末の世長きためし也けり」と歌を彫りつけてあり、明治の新しい世を迎えた時の作品です。
突然の訪問でしたが、忙しそうにしていた神光院の住職さんが床の間の掛け軸を見せてくださいました。蓮月77歳の時の松柏画で「やまさとは」の歌を自賛した軸です。
ここから少し離れた西方寺裏山の小谷墓地に、蓮月尼の墓がありました。自然石に「太田垣蓮月墓」と深く刻まれていました。今時の機械彫りの浅い彫りではなく、優に深さ1cm近くもあるしっかりした端正な彫りです。いかにも蓮月好みの棒釘字の隷書だとおもいますが、同じ墓地にある世間的にはこちらの方が有名な魯山人の墓よりも、私にはずっと奥ゆかしく好ましく思われました。
魯山人先生は型破りの人ですから期待していたのですが、「北大路家代々墓」の四角い墓石側面に、型どおりに戒名が「妙法禮祥院高徳魯山居士」と刻まれていました。赤御影の石でしょうか、彫りの縁が風雪で荒れているのも気になりました。
この間、墓参りの女性数人にお会いしただけの、まだ山桜があちこちで散り終わらぬ、行く春を惜しむような山里でした。
# by tsu-kaneko | 2008-04-21 19:09